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1話 / SCP-173

まばたき厳禁

廊下の蛍光灯が、頭の上でジッと鳴っている。 上司さんの声は聞こえているのに、意味だけが少し遅れて耳に届く。 「D-1103、入室の準備を」 はい、と私は答える。たぶん答えた。喉が乾きすぎていて、自分の声がよくわからない。

「再度確認する」 上司さんはクリップボードから顔を上げずに、淡々と読み上げる。白衣の襟元が少し歪んでいた。書類を読みながら早歩きで来たのだろう。 「対象は部屋の中央に設置されている。接触してはならない。視線を、絶対に、外すな」 「視線を……」 「外した瞬間、対象は移動する。接触した場合、頸部の破損を招く。ただちに死亡する」 「頸部の……」 「首の骨が折れる」 私はうなずいたつもりだったが、実際には頭が震えただけだったかもしれない。上司さんは書類から視線を上げて、私の目を見た。ほんの一瞬、何か言いかけて、やめた。 「瞬きは、交互にやっている職員がいる。今日は一人でやってもらう」 「ひとりで」 「短時間だ」

サイト深部の機関的な廊下、奥に二人のシルエット

金属の扉の向こう側から、ごく小さな音がした気がした。擦れるような、あるいは呼吸のような。だけど次の瞬間には消えていて、聞き違いなのか判断できなかった。

扉の前で、上司さんが止まる。 「D-1103」 「はい」 「怖くなったらすぐに声を出せ。出口は左側の非常扉だ。上で見ている」 私は、初めてまっすぐ上司さんの顔を見た。 上司さんは、少しだけ、笑ったように見えた。それとも、疲れていただけだろうか。

扉が開いた。

白い、とても白い部屋だった。 壁はコンクリート、床にも同じ素材の塗料。部屋の中央に、それは、立っていた。 ――灰色の、古い、石像だ。

白い収容室の中央に立つ灰色の彫像 SCP-173

胴はずんぐりしていて、顔と呼ぶには曖昧な突起が頭部についている。腕の位置には何もない。ただそこにある、という主張だけが強い。 首の後ろから、赤黒い帯が幾筋も垂れていた。古く、乾ききった、血痕だった。足下には白っぽい斑点がまだらに残っている。何かの有機的な染み。嗅いだことのない、乾いた尿のような、鉄錆のような匂いが、扉が開いた瞬間から鼻の奥に貼りついていた。

「……なんですかこれ」 自分でも意外なほど、声が出た。 「SCP-173」 上司さんの声が、インターフォンから聞こえてきた。私は反射的に振り返りそうになって―― 「視線を外すな」 鋭い声だった。 私は慌てて、それに視線を戻した。像は、さっきと同じ位置にいた。ような気がした。でも、さっきよりも、ほんの、少し、こっちを向いていないだろうか。

「……気のせい、ですか」 「気のせいではない」 上司さんの声は、いつもの淡々とした声に戻っていた。 「5分でいい。5分間、視線を外すな。瞬きは、できるだけ短くだ」 「5分……」 「カウントは私がする。開始」

最初の1分は、簡単だった。目を見開いていればいいだけ。 けれど、30秒もすると、まぶたがじりじりと熱くなってきた。目の奥が乾いて、視界がぼやけ、涙がせり上がってくる。涙で像が揺らいで、私は反射的に目を強くつむりそうになった。 ――だめ、だめ、見てる、見てます、見ていますから。 私は必死で、涙が落ちるに任せた。頬が濡れていくのがわかった。

「2分経過」 上司さんの声が、ずっと遠い場所から聞こえる。 像は、動かない。ように見える。 でも、瞬きを、ほんの少しだけ長くした瞬間。 ――ずり、と、重たいものが石を引きずる音がした。 いや、それだけじゃない。薄い膜のような、乾いた皮のような、何かがこすれる音が、確かに混ざっていた。

目を開けたとき、像は、1メートルほど、近くにいた。 こっちを、向いていた。 顔と呼ぶには不定形な、けれど確かに「目」と認識できる窪みが、ふたつ、私を見ていた。

「……」 私は悲鳴を飲み込んだ。飲み込んだと思った。実際には、喉の奥で、短く、情けない音が出ていた。 「動いた」 上司さんが、淡々と言った。 「そのまま見ていろ。距離はまだ安全圏だ」

距離。 安全圏。 その言葉が、ぐにゃぐにゃと歪んで頭の中を通り過ぎていった。 像は動かなかった。動かないまま、そこにあった。そこにあり続けた。まばたきで、あと何歩近づかれたら死ぬのかは、もう計算できなくなっていた。

3分を過ぎた頃から、呼吸が浅くなっていた。 吸っているのか吐いているのかわからないまま、空気だけが喉の奥で鳴っていた。指先が、冷たいのか熱いのか、もう感じ取れない。頬を伝う涙は、途中から赤く滲んでいた。目の奥の毛細血管が、どこかで切れていた。

「4分経過。あと1分だ」 私はうなずきかけて、やめた。首を動かした瞬間に視線がずれる気がした。 上司さんの声だけが、薄い現実だった。

5分が過ぎた。

「任務終了。後退しろ。ゆっくりでいい」 後ろ歩きで、一歩ずつ、私は扉に向かった。像は動かなかった。動かなかった。動かなかった。 扉が閉まる、その瞬間まで、私は像を見ていた。

扉がロックされる音がしたとき、膝が抜けた。 廊下の壁に、背中から滑り落ちて、私は座り込んだ。

任務後、廊下で座り込む被験者の足元と上司の靴

涙が、今になって、ちゃんと、あふれてきた。涙と、鼻水と、それから、口の中で噛み切っていたらしい舌の、血の味と。 ジャンプスーツの膝が、生ぬるく濡れているのに気づいたのは、少ししてからだった。

「よくやった」 上司さんは、書類を捲りながら、そう言った。私の顔を見ていなかった。書類に何かを書き込んでいた。淡々と、いつも通りに。 でもそのペンの先が、ほんの一瞬、止まった気がした。

「控室で、水を飲め」 「はい……」 「15分休憩だ。次の任務は14時から」 「……はい」

控室の椅子に座ったとき、私はようやく、自分がまだ生きていることを、本当の意味で理解した。 白いリノリウムの床に、私の膝から、薄い染みが広がっていた。 14時。 それまであと、何分だろう。

REPORT

SCP Foundation — Observation Log

FILE No.
OBS-████/SCP-173
DATE
████-██-██
AUTHOR
█████████
SUBJECT
D-1103
DURATION
00:05:00
STATUS
COMPLETED — SUBJECT ALIVE

分類EUCLID

オブジェクトクラス: Euclid

※ Euclid は「予測できない挙動はあるが、適切な手順で収容可能」のクラスである。

収容手順

  • 本対象は施錠された収容室で保管する。扉の鍵は外部からの不要な接近を防ぐ目的であり、対象の脱走抑止ではない。対象は扉を開けて移動する可能性がある。
  • 収容室には常時2名以上の職員を配置し、直接視認を維持すること。視線が外れた瞬間、対象は移動する。
  • 職員間では、まばたきを交互におこなうこと。同時にまばたきをしてはならない。
  • 清掃は週2回以上。対象周辺に乾燥した血液および排泄物に類する物質が堆積するため。感染リスクは現在まで確認されていないが、堆積の原因は不明。
  • Dクラス職員を単独で入室させる場合、視認時間は5分以内を原則とする。これを超える連続視認は、眼球の毛細血管破裂を招く。

説明

SCP-173 は、内部に鉄筋を持つコンクリートと、Krylon 社製スプレー塗料で構成された、およそ2メートルの彫像状の存在である。表面には灰色および赤みがかった塗料、乾燥した血液、ならびに由来不明の有機残留物が堆積している。

本対象は、視界から外れた瞬間のみ移動する。視認されている間は、完全に静止する。移動速度は人間の平均歩行速度と同等から、状況により秒速10メートル程度まで上昇することが報告されている。移動時、石を引きずるような低音と、乾いた皮膚がこすれるような高音が混在する。

接触時、対象は対象人物の頸部を破損させる。これによりほぼ確実に死亡する。攻撃は極めて迅速であり、予備動作は観測されていない。

本対象がなぜ移動するのか、なぜ接触を試みるのかは不明である。意図・知性の有無についても、現時点で判断材料はない。

備考

  • 本任務は、新規収容された D-1103 の適応試験を兼ねた視認任務である。所要5分、対象との接触なし、任務完遂。
  • 任務中、対象は1度のみ短距離移動を実施。D-1103 の瞬き(およそ0.2秒)の後、約1メートルの接近を確認。視線復帰後は追加移動なし。
  • 終了時点で D-1103 に以下の軽微な外傷を認めた。
    • 眼球結膜下出血(両側)
    • 舌部裂傷(自咬による)
    • 失禁
    • いずれも意識明瞭、応答可。
  • 次回以降、D-1103 の視認任務は継続的に実施可能と判断する。ただし連続視認時間は5分を限度とすること。
  • 本対象は、財団記録上、最古の収容物のひとつに属する。
署名: █████████

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