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2話 / SCP-049

診察はお断り

廊下の蛍光灯は、今日も同じ高さで、同じ音で鳴っている。 ひとつ前の任務から、どれくらい経ったのかは、もう数えないことにしていた。

「D-1103」 上司さんは、台車のストッパーを外しながら私の名前を呼んだ。 「本日は定期供給だ」 台車の上には、白い布がかけられていた。布の下はわずかに盛り上がっていて、その輪郭で、それが、四本足だったものなのだとわかった。 「……山羊、ですか」 「そうだ」 上司さんは短く答えて、クリップボードを片手に持ち直した。白衣の襟は、今日は整っていた。 警備員が二人、台車の左右についた。どちらもライフルを肩に吊っている。

山羊の遺体を載せた台車を運ぶ警備員と上司

「確認するぞ」 上司さんの声は、いつも通り、淡々としていた。 「本日、対象との直接接触は禁止。絶対に、対象の視界の中心に立たないこと」 「はい」 「対象から、どのような質問が来ても、答えないこと」 「はい」 「そしてこれが、一番重要だ」 上司さんはクリップボードから顔を上げて、私の目を見た。 「もし対象が、君に対して診察を申し出たら――」 「診察……」 「ただちに、後退しろ。返事はするな。目を合わせるな。上で見ている」 「上で……見て……」 私は、意味を咀嚼しきれないまま、うなずいた。 「……よく、あるんですか。こういうこと」 「ごく稀に、起きる」 台車が、かたん、と音を立てた。

収容室の前で、警備員が ID を読み取らせた。 金属の扉が、重く、ゆっくりと開く。 消毒薬のような鋭い匂いと、紙と革の、古い匂いが、同時に押し寄せてきた。

「D-1103」 「はい」 「入室する。静かに、台車を中央まで押せ」 「はい」

白い、とても白い部屋だった。 壁はコンクリート、床にも同じ素材の塗料が塗られている。 部屋の中央より少し奥に、椅子がひとつ。 そして、その上に、それは、座っていた。

ペスト医師、という言葉を、私は本でしか知らなかった。 中世ヨーロッパで、ペストを扱う医師が、鳥のような嘴のついたマスクをつけて歩いたという。嘴の中に香草を詰めて、瘴気を防ごうとしたのだ、と。

そういう姿をしたものが、そこにいた。

ただ、決定的に違う点が、ひとつだけ、あった。 マスクも、ローブも、革手袋も――それが身につけている「衣装」には、継ぎ目が、なかった。 陶製のマスクと思しき突起は、そのまま首の下の黒い厚布へとつながっている。黒い厚布は胴体を覆い、袖口で、手袋へと続いていく。 衣装ではなかった。そういう形の、皮膚だった。 膝の上には、黒い革の鞄が、ぽつんと置かれていた。

椅子に座る SCP-049 ペスト医師

それが、ゆっくりと、立ち上がった。

「ああ……本日の、患者ですか」

声は、若い男の声でもなく、老人の声でもなかった。 抑揚があって、丁寧で、少しだけ古い言い回しが混ざっていた。陶製のマスクの、どこから声が出ているのか、私にはわからなかった。 私は反射的に台車を止めて、警備員の陰に下がろうとした。 「そのまま、中央まで」上司さんの声が、後ろから聞こえた。「ゆっくりでいい」

警備員が手際よく、布ごと、山羊の遺体を台に移した。 SCP-049 は――私は心の中でだけ、それをそう呼んだ――両手を、ゆっくりと上げた。 遺体の首筋の上空、数センチのあたりで、手をかざす。触れはしなかった。 それから、腹部。脇腹。背骨のライン。 マスクの内側から、独り言めいた声がもれた。

「ふむ……この者にも、確かに、兆候がある。しかし、かほどに進行した Pestilence は、諸君には、理解されぬであろう」

ペスト。 私はクリップボードに、記録の形だけをつけた。警備員の背後から見る文字は、歪んでいた。

「ペストは、人の世に唯一の病です。ほかのあらゆる症状は、この一つの大きな病の、小さな枝葉に過ぎません」 彼は、遺体に向かって語りかけるように続けた。 「そして、私の治療は」 革手袋が、遺体の上で、ゆっくりと動いた。 「――極めて、有効なのです」

ペンを走らせる振りをしていた私は、そこで、ほんのわずかに、呼吸を緩めた。 そのわずかな動きを、彼は、見逃さなかった。

SCP-049 が、山羊の遺体から、顔を上げた。 陶製のマスクが、ゆっくりと、私のほうを向いた。 嘴の根本に空いた、ふたつの丸い穴には――何も、なかった。 目があるべき場所に、ただ、夜があった。 光を、まったく反射しない、深い、黒だった。

SCP-049 が D-1103 に診察を申し出る瞬間

「……おや」

私は動けなかった。

「こちらの、お嬢さん」

警備員が銃口を上げた、その音が、どこか遠くで聞こえた。

「少々、顔色が」

私は、息を止めていた。止めていることに、気づいてすら、いなかった。

「よろしくない」

「ドクター」 上司さんの声だった。 いつの間にか、上司さんは、私の斜め前に、半歩、出ていた。 書類をめくる手はそのままに、声だけを、049 に向けていた。 「彼女は、健康です。今日の患者は、そこの個体のみです」

049 は、首を、わずかに傾げた。マスクの穴がゆっくりとスライドして、上司さんを見た。それから、もう一度、私を。

「健康? ……いいえ、同僚殿」 彼は、丁寧な口調のままで、言った。 「私の目は、欺けません。このお嬢さんには、慢性的な疲労の影があります。頸に、肩に、そして――」

「ドクター」 上司さんの声が、ほんの少しだけ、硬くなった。 「今日は、必要ありません」

数秒の沈黙があった。 空調の音が、妙に大きく聞こえた。

「……そう」 049 は、ゆっくりと、マスクごと、うなずいた。 「残念なことです。治癒の機会は、いつも、失われてゆく」 彼は、静かに、山羊の遺体に視線を戻した。 革手袋が、また、ゆっくりと、動き始めた。

警備員が、私の肩に手を置いた。後退するように、というサインだった。 私は、一歩ずつ、後ろに下がった。 扉が閉まる直前、私は、もう一度だけ、部屋の中を見てしまった。

049 は、私を見ていた。 山羊の遺体の向こうから、首だけをこちらに向けて、あの、真っ黒な穴で。

扉のロックが、重い音を立てた。

膝から、力が抜けた。 冷たい廊下の壁に、背中をつけて、私は、ずるずると、滑り落ちた。 息が、浅かった。吸っているのに、足りない。吐いているのに、残っている。指先がジンと痺れていて、じわじわと、冷たくなっていく。涙は、出なかった。泣く前に、呼吸が、追いついていなかった。

「よくやった」 上司さんは、書類に何かを書き込みながら、言った。 私の顔は、見ていなかった。いつも通りに。 「対象からの呼びかけに、一度も、応じなかった。それは、正しい」 「……はい」 「過換気を起こしている。一度、両手で顔を覆って、息を整えろ」 言われたとおりにすると、数十秒後、ようやく、呼吸が一つ、自分の意思で、入った。

「次の任務は、15時だ」 「……はい」

立ち上がろうとして、一度、また、壁にもたれた。 あの、陶製マスクの、黒い穴が、視界の端に、焼き付いていた。まばたきをしても、消えなかった。 15時。 それまでに、あれが、消えてくれればいいな、と、思った。

REPORT

SCP Foundation — Observation Log

FILE No.
OBS-████/SCP-049
DATE
████-██-██
AUTHOR
█████████
SUBJECT
D-1103
DURATION
00:08:00
STATUS
COMPLETED — SUBJECT ALIVE

分類EUCLID

オブジェクトクラス: Euclid

※ 本対象はヒューマノイド型実体として常に収容監視下にあるが、収容手順を遵守する限り、収容は安定している。

収容手順

  • 本対象はサイト██のヒューマノイド収容セルに単独収容すること。
  • 移送時は鎮静処置を必須とし、クラスⅢヒューマノイド制限ハーネスを着用させる。
  • 2週間ごとに、牛・山羊等の大型哺乳類の遺体を1体、収容室に供給すること。対象はこれに対して「治療行為」を行うが、これは本対象の鎮静維持に必要な儀礼と見なされている。
  • 本対象への人間被験体の接触は、現在、全面的に禁止されている。
  • 本対象が異常な興奮状態を示した場合、ラベンダーの香気による鎮静を試みること。本対象はラベンダーに対し、顕著な鎮静反応を示すことが確認されている。

説明

SCP-049 は、身長約1.9メートルの人型実体である。外見は、中世ヨーロッパの「ペスト医師」 ―― 嘴状の陶製マスクと、厚いローブを身につけた医師 ―― そのものである。

ただし、その陶製マスク、厚いローブ、革手袋は、本対象の身体の一部として形成されており、切除・除去は不可能である。X線検査により、内部には人間に類似した骨格構造が確認されている。

本対象は複数言語を解するが、会話では英語および中世フランス語を好む。口調は丁寧で礼儀正しく、自身を医師と認識している。

本対象は 「ペスト (Pestilence)」 を「人の世に存在する唯一の病」と主張し、これを治癒する手段を自分だけが知っていると信じている。

本対象に直接接触された生物は、全生理機能が即時に停止する。その後、本対象は自身の外科器具を用いて「手術」を数日間継続し、対象を SCP-049-2 と指定される個体へと改造する。

SCP-049-2 は、元となった個体の記憶・人格・知性を全て喪失しており、基本的な運動機能と反射のみを保持する。通常は不活性であるが、SCP-049 の指示または強い刺激により、極度の攻撃性を示す。

本対象が常時携行している黒い革製の医療鞄は、内部空間が異常に拡張されており、多数の外科器具・試薬・注射器等を収容している。

備考

  • 本任務は、2週間ごとに実施される動物遺体の定期供給任務であり、対象との直接的な接触は想定されていない。
  • 任務中、対象は D-1103 に対して「診察」を申し出た(1件)。主任観察官の即時の制止により、対象から D-1103 への接近・接触は発生しなかった。
  • 終了時点で D-1103 に以下の軽微な反応を認めた。
    • 過換気
    • 手指振戦
    • 一過性の発汗
    • いずれも意識明瞭、応答可。
  • 対象が被験体に「診察」を申し出た場合、いかなる応答も行わないこと。対象は応答を「治療への同意」と解釈しうる。
  • D-1103 は本任務中、指示に従い沈黙を維持した。継続的な配置は可能と判断する。
署名: █████████

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