第14話 / SCP-268
誰も覚えない帽子
帽子は、透明なケースの中でひどく普通に見えた。
古いウールの帽子。つばが短く、布目は粗い。検査灯の下に置かれているせいで、灰色の糸だけが少し白く浮いていた。危険物というより、誰かが休憩室に置き忘れた私物に近かった。

「見るな、とは言わない。」
上司さんの声が、観察室のスピーカーから降りてきた。
「ただし、見たことを信じすぎるな。」
私は返事をした。返事をしてから、自分の手袋がケースの留め具に触れていることに気づいた。金具は冷たかった。開けると、乾いた布と古い木箱の匂いがした。
帽子を取り上げる。軽い。軽いのに、なぜか手首だけが少し沈む。
「着用は三分。合図があったら外せ。」
「わかりました。」
私は帽子をかぶった。
最初は何も起きなかった。
壁の時計は同じ速度で進んでいた。床の白線も、ガラスの向こうの監視員も、私の前にある椅子も変わらない。私は立っている。呼吸している。手袋の中で指が少し汗ばんでいる。
それなのに、監視員の視線が私を通り過ぎた。
一人目は端末を見た。二人目は壁際のクリップボードに目を落とした。三人目は、私のいる場所を見たまま、何も見つけなかった顔をした。

私は右手を上げた。
誰も反応しない。
「上司さん。」
声を出した瞬間、ガラスの向こうで三人が同時に肩を動かした。いま初めて私に気づいたような動きだった。端末のキーボードが止まり、椅子の脚が床をこすった。
「記録継続。もう一度、無言で待機。」
短い指示だった。
私は口を閉じた。
十秒もしないうちに、監視員たちの目から私が外れた。見えていないわけではない。彼らの瞳は何度もこちらを通る。けれど、そこに留まらない。廊下の壁の汚れや、天井の蛍光灯と同じ扱いで、私を通過していく。
自分が透明になるのなら、まだ理解できたかもしれない。
でも私は見えている。たぶん。私の影は床に落ちているし、体重計の数字は変わっている。熱感知の小さなランプも、私が動くたびに色を変えた。
見えているものを、誰も拾わない。
そのほうが怖かった。

監視カメラの映像が壁面モニターに出ていた。そこに映っているはずの私は、輪郭だけがざらついていた。顔のあたりが、濡れた紙を指でこすったみたいに曖昧になっている。帽子のつばだけは妙にはっきりしていた。
「外せ。」
私は帽子を取った。
音はしなかった。部屋も変わらなかった。ただ、ガラスの向こうの監視員が、今度は私を見た。見て、目をそらさなかった。
「氏名を言えるか。」
上司さんが言った。
私は自分の名前を言おうとして、少し遅れた。
名前は出てきた。けれど、口の中で一度ほどけた。誰かの名札を読んでいるような感触が残った。
「帽子はケースへ戻せ。以後、自分から触れるな。」
私はケースに帽子を戻した。留め具を閉じると、急に手が重くなった。
ガラス越しに監視員の一人がこちらを見た。彼は何か言いかけて、やめた。今の三分間を、どこまで覚えているのかわからない顔だった。
私は記録用紙に、帽子、と書いた。
それから線を引いて、書き直した。
見落とされる帽子。
まだ足りない気がした。見落とすのは、帽子ではなく、帽子をかぶった人間のほうだから。
でも、それ以上の言葉を探しているあいだに、紙の上の文字まで少し遠くなった。
SCP Foundation — Observation Log
- FILE No.
- OBS-████/SCP-268
- DATE
- ████-██-██
- AUTHOR
- █████████
- SUBJECT
- D-1103
- DURATION
- 00:03:00
- STATUS
- COMPLETED — RECOGNITION DISTORTED
【分類】EUCLID
SCP-268はEuclidクラスとして扱う。対象は着用者を物理的に不可視化するものではなく、人間の注意および記憶への定着を阻害する異常物品である。逃走補助または認識回避に利用される危険性が高いため、通常職員の接触を制限する。
【収容手順】
対象は施錠された不透明ケース内で保管する。着用試験は短時間に限り、観察員、記録員、非視覚センサーを分けて配置すること。試験中は発話、物理接触、帽子の除去による再認識条件を段階的に確認する。
試験後は着用者および観察者に対し、記憶の欠落、注意の逸脱、対象者への再認識可否を確認する。長時間または反復着用は承認なしに実施しない。
【説明】
SCP-268は、古いニュースボーイ型のウール帽に見える異常物品である。着用者は物理的に不可視になるわけではない。影、重量、熱、動作などは検出される。ただし人間の観察者は、着用者を「そこにいて当然のもの」として処理し、意識的な注意や記憶へ残しにくくなる。
発話、帽子の除去、または観察者との物理的接触により、着用者は一時的に再認識される。しかし再認識後も、観察者が能動的に注意を維持しない場合、効果は再び進行する。
電子的な映像記録については扱いに注意を要する。原典記録では、監視映像や写真が不鮮明に感じられる事例があり、実際に映像が変質しているのか、観察者側の認識が変質しているのかは確定していない。一方、重量、熱、動体検知などの非視覚的検出は反応する。
【備考】
長時間または累積的な着用では、帽子を外した後にも認識阻害が残る危険がある。原典記録では、長期着用者に対して効果が強化され、解除困難になる可能性が示されている。職員運用や逃走対策上の価値は高いが、同じ理由で収容違反時の被害も大きい。
今回のEve記録では、短時間着用のみで試験を停止した。発話による再認識、無言待機後の再逸脱、映像上の輪郭不鮮明化、非視覚センサーの反応は、原典記録と矛盾しない。次回以降の試験では、着用者の自己認識の遅れも観察項目に追加する。