第3話 / SCP-914
よくなりすぎる機械
「今日は、走らなくていい」 上司さんはそう言って、私の前に薄い手袋を置いた。 それは慰めのつもりだったのかもしれない。けれど私は、手袋の指先がきれいに揃いすぎているのを見て、かえって嫌な予感がした。
「視線を外すな、とか」 「ない」 「返事をするな、とか」 「ない」 「触られたら死ぬ、とか」 「対象には触るな。だが、対象そのものに殺意は確認されていない」
殺意は。 その言い方が、廊下の空気を一段だけ冷たくした。
台車の上には、へこんだ金属カップが一つ載っていた。食堂で使われる支給品だ。縁が曲がり、底には黒い焦げ跡がある。 「本日の試験対象」 「これを、どうするんですか」 「よくする」
上司さんは、それ以上説明しなかった。
研究セル109-Bの扉は、他の収容室よりも広かった。中に入ると、部屋の半分ほどを巨大な機械が占めていた。 歯車。ベルト。滑車。ばね。銅色の管。ネジの山。古い時計を、建物ほどの大きさまで膨らませたみたいなもの。 でも、ただ古いだけではなかった。 機械は止まっているのに、こちらを待っているように見えた。
左右に、電話ボックスみたいな箱が二つある。片方には Intake、もう片方には Output。中央の銅板には、大きなつまみがついていて、その周りに五つの文字が刻まれていた。 Rough。 Coarse。 1:1。 Fine。 Very Fine。

「SCP-914」上司さんが言った。「ぜんまい仕掛け。分類は Safe」 「Safe」 私は、少しだけ息を吐いた。 その瞬間、上司さんがこちらを見た。 「安全、という意味ではない」
研究員が試験リストを読み上げる。警備員が二人、扉の左右に立っている。 私の仕事は、カップを Intake の中に置き、扉の外へ戻り、上司さんの合図で鍵を巻くこと。 それだけ。
それだけ、のはずだった。
私は金属カップを両手で持った。軽い。へこんだ縁が手袋越しに指へ当たる。 Intake の床は、磨かれた銅板だった。カップを置くと、こん、と小さな音がして、その音が機械の奥へ吸い込まれていった。

「戻れ」 私は一歩下がった。 Intake の扉が横に滑って閉まる。 ちりん、と、小さなベルが鳴った。
「設定、Fine」 研究員の声。 上司さんがつまみの位置を確認し、私に視線だけで合図した。
大きな鍵は、私の胸の高さにあった。 両手で握って、押すように回す。 ぎり、と重い音がした。 もう一度。 ぎり。 さらにもう一度。
機械が、起きた。
最初に鳴ったのは、遠くの雨みたいな細かい音だった。次に、部屋全体がゆっくり震えた。歯車が噛み合い、ベルトが走り、どこかで空気が吐き出される。 私は思わず耳を塞ぎかけて、上司さんに止められた。 「見ていろ」 「何を」 「怖がらなくていい。だが、見逃すな」
Intake の中で何が起きているのかは見えない。厚い扉が閉じていて、窓もない。 それなのに、私は、機械の腹の中で金属カップが少しずつ別のものへほどかれていくのを想像してしまった。 へこみが直る。 焦げが落ちる。 銀色に磨かれる。 きっと、そういうことなのだろう。
5分を過ぎた頃、音が変わった。 雨が止むみたいに、細かい歯車の音が一つずつ消えていく。 最後に、ちりん、と同じベルが鳴った。 Output の扉が開いた。
中にあったのは、カップではなかった。
薄い金属片が、十二枚。 花びらのような形に湾曲して、中央に向かって重なっている。カップの重さと同じだけの金属でできた、器のようなもの。 ただし、縁はすべて刃だった。 光を受けるたびに、針みたいな白い線が走る。きれいだった。きれいすぎて、触れたら指がなくなるとわかった。

「……よく、なったんですか」 私は聞いた。
上司さんは、出力物に触れず、研究員へ回収器具を渡した。 「少なくとも、機械はそう判断した」 「カップじゃ、ないです」 「元の用途を保つとは限らない」 「じゃあ、Fine って」 「我々の言う“良い”ではない」
金属の花びらが、透明な回収容器に収められる。 研究員の一人が、満足そうにうなずいた。危険物が増えたのに、満足そうだった。
「Very Fine だったら」 言ってから、私は自分の声が小さく震えているのに気づいた。 「このカップは、どうなっていたんですか」
上司さんは答えるまで、少しだけ間を置いた。 「推測はしない」 「知らないんですか」 「知っている結果もある。知らないほうがいい結果もある」
そのとき、機械の奥で、かち、と音がした。 さっきまで動いていた大きな歯車ではない。もっと小さな、内側の、時計の針が一目盛りだけ進んだような音。 私は反射的に、Output の空っぽになった箱を見た。
何もない。 何もないのに、機械はまだ、何かを待っているように見えた。
「D-1103」 「はい」 「本日の任務は終了。退室する」
廊下へ出ると、音が消えた。 それだけで、体が軽くなった気がした。 でも、耳の奥にはまだ、あのベルの音が残っていた。
「上司さん」 「何だ」 「人を入れたことも、あるんですか」
上司さんは歩きながら、クリップボードに何かを書いた。 そのまま答えないのかと思った頃、短く言った。
「今は、禁止されている」
それだけで十分だった。 私はそれ以上聞かなかった。
Safe。 その言葉を、さっきより少しだけ信じなくなった。 それは、優しい分類ではない。 ただ、鍵を巻かなければ眠っているというだけの、古い怪物の名前だった。
SCP Foundation — Observation Log
- FILE No.
- OBS-████/SCP-914
- DATE
- ████-██-██
- AUTHOR
- █████████
- SUBJECT
- D-1103
- DURATION
- 00:10:00
- STATUS
- COMPLETED — SUBJECT ALIVE
【分類】SAFE
オブジェクトクラス: Safe
※ Safe は「収容手順が確立しており、意図せず作動しない限り管理可能」を示す分類である。対象が無害であることを意味しない。
【収容手順】
- SCP-914 は研究セル109-Bに固定保管する。
- 操作はサイト司令部の承認を受けた職員、または承認済み職員の監督下にある補助員に限る。
- 試験前に、投入物・設定・回収手順を記した試験リストを警備員へ共有すること。リスト外の試験を行った場合、試験は即時中止される。
- 試験中は最低2名の警備員を配置し、Intake / Output の両ブース前に不要物を置かない。
- 現在、生物および生体由来物の投入は禁止されている。
- 爆発物・反応性物質に対する Rough 設定の使用は禁止する。
【説明】
SCP-914 は、複数トンの重量を持つ大型ぜんまい式装置である。装置は歯車、ねじ軸、ベルト、滑車、ばね、銅管などから構成され、主材は錫および銅である。既知の電子部品や外部電源は確認されていない。
装置には Intake と Output と表示された2つのブースが接続されている。中央制御盤には Rough / Coarse / 1:1 / Fine / Very Fine の5段階を示すつまみと、主ぜんまいを巻く大型の鍵がある。
投入物を Intake に置き、任意の設定を選択して鍵を巻くと、対象は内部で「精製」され、数分後に Output から出現する。処理中の内部観測は成功しておらず、処理結果は設定に応じた傾向を持つが、人間にとって有用・安全・理解可能であるとは限らない。
特に Fine および Very Fine は、投入物を高精度化・高度化する傾向を持つ一方、用途や安全性を保持しない。過去の生体試験では重大な事故が発生しており、以後の生物投入は停止されている。
【備考】
- 本任務では D-1103 を補助員として使用し、損傷したステンレス製支給カップ1点を Fine 設定で処理した。
- 出力物は同質量の薄片状金属構造体。器形状を保持しているが、縁部すべてが鋭利化しており、飲用具としての使用は不可能。
- 回収容器に封入後、物性試験へ移送。D-1103 への身体接触・異常曝露は確認されなかった。
- D-1103 は試験後、Safe クラスの意味について質問。教育上有益な反応と判断し、追加説明は最小限に留めた。
- 次回以降、D-1103 を SCP-914 の非生体試験補助へ再投入することは可能。ただし Very Fine 設定の試験には同席させないことを推奨する。