第8話 / SCP-087
下りつづける階段
扉の前に立ったとき、私は最初、それを物置だと思った。
古い校舎の廊下にある、掃除用具入れみたいな扉。塗装は周囲の壁に合わせてあり、プレートもない。けれど近づくと、蝶番だけが妙に重かった。扉の縁には、見慣れない厚みの鋼が隠れている。ノブの下には、小さな電極が二つ埋め込まれていた。
「普通の扉に見えるだろう」
上司さんが言った。
「はい」 「そのために普通に見せている」
私は返事を飲み込んだ。
ここで「普通に見えるもの」は、だいたい普通ではない。普通に見せる必要があるものほど、開けたあとが悪い。
上司さんは手元の端末で電圧を確認し、別の職員が鍵を回した。鍵は一度では動かなかった。電流を流しながら、決められた向きにねじる。金属の奥で、重いものが外れる音がした。
扉を開けた職員が、一歩だけ前に出た。黒い装備の背中が入口の左側をふさいで、私はその後ろ、まだ廊下側で待たされた。

扉の内側には、黒い緩衝材が貼られていた。
厚い。まるで、外へ音を出さないためではなく、中から何かが叩くのを受け止めるための布団だった。
「D-1103」 「はい」 「照明は胸元の一つだけ。予備灯は携行するが、同時使用はしない」 「明るいほうが安全では」 「ここでは、強い光は距離を伸ばさない」
上司さんは私のハーネスを確認した。通信機、心拍計、肩の小型カメラ。胸のライト。ケーブルの端を一つずつ見て、最後に扉の奥へ視線を向ける。
その先には階段があった。
下り階段。
それだけなら、怖くないはずだった。
でもライトを点けると、怖くなった。
光が、伸びない。
胸元から白い円が落ちる。足元の段差は見える。手すりも見える。けれどその先へ光が進まない。暗闇に押し返されるというより、黒い水に浸した紙みたいに、光そのものが吸われていく。
「十三段で踊り場。踊り場ごとに向きが反転する」 「底は」 「確認されていない」
上司さんの声は、いつもどおり短い。
「声が聞こえても、追うな」
私は一度だけ息を止めた。
「声、ですか」 「下から聞こえる。救助対象とは断定しない」 「断定しない、ということは」 「救助対象ではない、とも断定しない」
嫌な言い方だった。
行けと言っているのに、助けろとは言わない。助けるなとも言わない。ただ記録しろ、と言う。その幅の中で、自分の足だけが階段を選ぶ。
「下降開始」
私は一段目に足を置いた。
コンクリートは乾いていた。ほこりの匂いがする。校舎の奥にある古い階段の匂い。でも、ここには窓がない。外の音もない。廊下にいた職員の気配は、扉を越えた瞬間に薄くなった。
十三段。
踊り場。
半円形の踊り場は、私一人なら十分に立てる広さがあった。壁は平らで、傷も落書きもない。下りの方向だけが、きれいに反対へ折れている。

私は振り返った。
上の扉は、もう見えなかった。
まだ十三段しか下りていない。普通なら見える距離のはずだった。けれどライトは私の周囲だけを白くして、その外側は全部同じ黒だった。
「一踊り場目、異常なし」 「続行」
上司さんの声が耳の中で鳴る。
その声がなければ、私はすぐ戻っていたと思う。
二つ目の踊り場。 三つ目。 四つ目。
段数は同じ。角度も同じ。足の裏に返ってくる感触も同じ。違うのは、私の息だけだった。下りているだけなのに、息が浅くなる。体が先に、戻る分の距離を数え始めている。
「D-1103、速度を落とせ」 「はい」 「視線を足元から外しすぎるな」
私はうなずいた。
そのとき、下から音がした。
泣き声だった。
細くて、途切れていて、壁の中を通っているみたいな声。子どもの声に聞こえた。そう聞こえる、というだけで、体の奥が勝手に反応する。
私は足を止めた。
「上司さん」 「記録しろ」 「子どもみたいです」 「推定として記録」 「距離は」 「既存記録では、約二百メートル下方と推定されている」
二百メートル。
私はもう何階分も下りた気がしていた。でも声は遠い。遠いというより、遠さだけが固定されている。私が一段下りるたびに、声も一段ぶん下がっているみたいだった。
「助けを呼んでいます」 「言葉は確認できるか」
私は耳を澄ませた。
泣いている。 苦しそう。 でも、何を言っているのかはわからない。
「確認できません」 「続行。無理に近づくな」
無理に近づくな。
でも階段は、下りるためにある。
私はまた足を動かした。
踊り場をいくつ通過したのか、途中から数えられなくなった。十三段という数字だけが残る。十三、踊り場、反転。十三、踊り場、反転。世界がその繰り返しだけになる。
壁に触れたくなった。
触れれば、ここが本当にあるとわかる気がした。でも手を伸ばす前に、上司さんの声が来た。
「壁面接触は禁止」 「見えているんですか」 「見ている」
私は手を戻した。
見られている、とわかることが、ここでは少しだけ救いだった。
その救いが消えたのは、次の踊り場だった。
通信に、砂をこすったような音が入った。
「上司さん」
返事がない。
「上司さん、聞こえますか」
ざり、ざり、と音だけが返ってくる。
私は踊り場の中央で止まった。胸のライトが壁を照らす。白い円の端が震えている。私の呼吸のせいだった。
下から、泣き声。
さっきより近くない。
それがいちばん嫌だった。
私は下を照らした。
階段がある。十三段の途中まで見える。その先は黒い。
黒い中に、白いものがあった。
最初は顔だと思わなかった。
丸い、平らな白。壁に浮いた染みのようなもの。目の位置に穴がある。けれど瞳はない。鼻も、口もない。顔に必要なものが、そこにあるべき場所だけを残して抜き取られていた。
私は息を吸えなかった。
白いものは、動かなかった。
でも距離だけが、おかしい。
階段の下にいるはずなのに、遠くない。近くもない。ライトの届かない場所にあるのに、見えている。見えているのに、輪郭が決まらない。
「確認」
やっと声が出た。
「白色の顔状実体。目、鼻、口の詳細なし。階段下方」
通信は返らない。
泣き声だけが聞こえる。
私は一歩、後ろへ下がった。
その瞬間、顔が少し大きくなった。
近づいたのか、私の目がそう判断したのか、わからない。わからないまま、体が勝手に二歩目を選んだ。踊り場の端にかかとが当たる。
戻る。
その言葉だけを考えた。
私は階段を上り始めた。下りよりずっと難しかった。足が重い。十三段が長い。踊り場で向きを変えるたび、白い顔が背中側にいる気がした。振り返りたくない。振り返らなければいけない。どちらも同じくらい怖かった。
通信が一瞬だけ戻った。
「D-1103、応答」 「います」 「撤収。顔状実体を追跡するな」 「追っていません」
言いながら、自分が何から逃げているのかもわからなかった。
泣き声はまだ下にある。
二百メートル下。 たぶん、ずっとそこ。
でも上へ向かう私の背中にも、声はついてきた。
扉の明かりが見えたとき、私はほとんど走っていた。上司さんの「速度を落とせ」という声が聞こえたけれど、足が聞かなかった。最後の十三段を上りきり、開いた扉から廊下へ出る。
廊下の蛍光灯がまぶしかった。
誰かが私の肩を押さえた。ハーネスを外す音がする。心拍計のアラームが鳴っている。
私は壁際まで下げられた。扉の前に残ったのは、上司さんと記録係だけだった。
上司さんが扉を見ていた。
「閉鎖」
鋼鉄の扉が閉まる。ロックがかかる。

そのあと、内側から音がした。
こん。
一回。
こん。
二回。
私は息を止めた。
扉の内側の緩衝材が、その音を少し丸くしていた。けれど消しきれていない。誰かが向こう側から、ゆっくり叩いている。
「上司さん」
私の声はかすれていた。
「あれは、私を呼んでいますか」
上司さんはすぐには答えなかった。
扉を見たまま、端末に記録を入れる。
「呼称意図は不明」
それから、私のほうを見ずに言った。
「だが、返答は不要だ」
こん。
また一つ。
私はうなずいた。返事をしないために、歯を噛みしめる。
階段は閉じた。
でも、下りつづけている感覚だけが、足の裏に残っていた。
SCP Foundation — Observation Log
- FILE No.
- OBS-████/SCP-087
- DATE
- ████-██-██
- AUTHOR
- █████████
- SUBJECT
- D-1103
- DURATION
- 00:28:00
- STATUS
- COMPLETED — SUBJECT RECOVERED
【分類】EUCLID
オブジェクトクラス: Euclid
SCP-087 は、出入口の制限により表面的には閉鎖可能である。ただし内部空間の深度、音源、SCP-087-1 の性質、および探索者への心理的影響が未解明であり、通常の建築物として扱うことはできない。最終探索後は、人的侵入を禁止する運用が妥当である。
【収容手順】
SCP-087 への入口は、対象所在地の建物内で清掃用収納室に偽装される。扉は補強鋼材および電気式ロックで固定し、解除には承認された電圧印加と指定方向の鍵操作を必要とする。
扉内側には厚い緩衝材を設置し、内部から発生する打撃音を低減する。最終探索記録以降、SCP-087 内部への侵入は認めない。保守、監視、音響記録の取得は、扉外部から実施する。
【説明】
SCP-087 は、窓および照明設備を持たない下り階段である。階段は十三段ごとに半円形の踊り場へ接続し、各踊り場で下降方向が反転する。構造上、探索者の視界はごく短い範囲に限定される。
携行照明は必須であるが、高出力光源を用いても視認距離は大きく改善しない。対象内部では、余剰光が吸収されるような現象が観測されている。
探索中、下方から苦痛または救助要請に類する音声が記録される。音声は子どものものに類似して聞こえるが、発声主体、実在性、および救助対象の有無は確認されていない。探索者が下降しても音源との距離は縮まらず、推定位置は常に深部に留まる。
SCP-087-1 は、顔に類する白色実体として記録される。瞳、鼻孔、口に相当する明確な構造は確認されていない。遭遇した探索者は強い恐怖および被追跡感を訴えるが、その反応が異常性によるものか、状況に対する自然反応かは未確定である。
【備考】
本記録では、D-1103 が探索記録再構成の被験者として SCP-087 に入った。対象は複数の踊り場を通過後、下方音声および SCP-087-1 に類する顔状実体を報告した。通信障害後、被験者は自力で撤収し、外傷は確認されなかった。
撤収後、入口扉内側から周期的な打撃音が観測された。扉内側の緩衝材により音量は低減されたが、完全な遮断には至っていない。
以後、SCP-087 内部の音声を救助要請として扱う場合でも、即時侵入は認めない。救助可能性と誘導罠の可能性を分離できないためである。記録担当者は、音声への返答、扉の再解放、または独断での下降を行ってはならない。