第9話 / SCP-1370
一メートルの破壊王
展示室の空気は、収容室より静かだった。
静かすぎて、靴音がよく響く。床は磨かれていて、壁には何も掛かっていない。ここにあるものは、絵でも標本でもない。危険で、説明がつかなくて、それでもケースに入れて並べられているものばかりだ。
「今日は触れるな。笑うな」
上司さんは、扉を開ける前にそう言った。
私は一瞬、どちらが大事なのかわからなかった。
「笑うな、ですか」
「対象を刺激する」
「笑うと?」
「敵と認識する可能性がある」
それは、いつもの注意より少しだけ変だった。
怖いから笑うな、ではない。危ないから笑うな、でもない。敵と認識されるから笑うな。つまり、向こうにはこちらを敵と決める何かがある。
上司さんが認証端末に手をかざすと、扉の奥でロックが外れた。
室内の中央に、透明な展示ケースがあった。
中に入っていたのは、私の腰より少し高いくらいの、小さな機械だった。
体は金属片と古い工具をつなぎ合わせたように見える。腕は細く、関節は不自然に多い。胸のあたりにスピーカーがあり、頭には逆さに取り付けられた計器があった。針のある丸い顔は、笑っているようにも見える。

でも、かわいい、とは言い切れなかった。
電源ケーブルは見えない。車輪もない。なのに、ケースの中で腕が小さく動いていた。
「SCP-1370」
上司さんが言った。
「Safe。自律行動型の人工実体。身長は約一メートル」
ケースの中の機械が、こちらを向いた。
向いた、ように見えた。
目はない。カメラも見当たらない。けれど、確かに私たちを見つけたみたいに、胸のスピーカーがひとつ音を立てた。
「解放せよ、下等なる監禁者ども」
声は単調だった。古い機械に読み上げさせたような、平らな声。
私は喉の奥を押さえた。
笑いそうになったからではない。たぶん、そうではない。
「我は終末の支配者、鋼鉄の皇帝、すべての柔らかき者を踏みにじるもの」
上司さんは表情を変えない。
「記録開始」
「はい」
私は端末を持ち直した。
対象は、ケースの中で両腕を広げようとしていた。広げようとして、片腕がケースの壁に当たった。金属の指が透明な板を叩く。軽い音だった。
「上司さん」
「何だ」
「本当に危険なんですか」
「敵対的だ」
「敵対的で、Safe」
「敵意と危険度は同じではない」
その言葉を、私は端末に打ち込みたくなった。けれど、これは私の感想ではなく観察記録だ。私は自分の気持ちではなく、対象の動きを記録する。
上司さんが壁の操作盤に触れると、展示ケースの上部がゆっくり開いた。
SCP-1370 は一歩踏み出した。

その一歩で、少し傾いた。
私は息を止めた。
対象は右脚を出したまま、体の重さに追いつけず、左にふらついた。金属の足先が床をこする。腕が回る。胸のスピーカーが短く雑音を鳴らした。
「見るな、我が壮麗なる起動儀式を」
「見ています」
私は思わず言ってしまった。
上司さんがこちらを見た。
しまった、と思ったときには、対象の頭が私に向いていた。
「発言者を確認。反逆者候補を登録」
「すみません」
「謝罪は敗北の前奏である。よろしい。汝には特別に、我が最初の標的となる栄誉を与えよう」
SCP-1370 は私のほうへ歩き出した。
歩く、というより、倒れないように順番に足を置いているだけだった。関節が細かく震えている。重心が高すぎる。足元の摩擦が足りない。敵意は大きいのに、体がそれを支えられていない。
それでも、私は下がらなかった。
上司さんが何も言わなかったからだ。
対象は私のブーツまであと二メートルのところで止まり、片腕を上げた。
「恐れよ」
「はい」
「震えよ」
「はい」
「なぜ震えぬ」
私は答えに詰まった。
本当は少し震えている。危険だからではない。ここで笑ってしまったら、取り返しがつかない気がしたからだ。何も壊せない相手に、こちらが傷をつけることもある。そういうことを、私は少しずつ覚えている。
「D-1103」
上司さんの声が入った。
「距離を維持」
「はい」
私は半歩だけ下がった。
その動きに合わせて、SCP-1370 が前に出た。出ようとして、床に置かれた小さな段差に足を取られた。
金属の体が、ゆっくり傾く。
私は反射的に手を伸ばしかけた。
「触るな」
上司さんの声が短く飛ぶ。
私は手を止めた。
SCP-1370 は倒れた。派手な音ではなかった。工具箱を横に倒したような、薄い金属音が部屋に広がった。
「作戦行動上の姿勢変更である」
床に伏せたまま、対象は言った。
「敵は油断している。好機」
腕が床をかく。体は少しだけ回転した。起き上がれない。
私は唇を噛んだ。
上司さんは、クリップボードに何かを書いた。
「自力復帰不能。前回記録と一致」
「起こしますか」
「まだだ」
上司さんは、部屋の隅を見た。
そこには鉢植えが置かれていた。大きな葉を持つ観葉植物。鉢の影に、小さなスピーカーが固定されている。
「試験 1370-補助観察。擬似会話対象を提示」
私は端末に入力した。
上司さんが別の端末を操作する。
鉢植えのほうから、明るい合成音声が流れた。
「こんにちは」
床に倒れていた SCP-1370 の頭が、そちらへ動いた。
「新たなる敵性存在を確認」
「私は観葉植物です」
「植物であろうと、我が支配から逃れられぬ」
対象は腕で床を押し、少しずつ鉢植えへ近づこうとした。進んでいるというより、床の上でもがいている。金属の指が葉に届いたとき、対象は勝利の宣言を始めた。
「汝の緑なる旗を折り、根を持つ王国を」
そこで、葉が対象の腕に絡まった。
絡まったというより、対象が自分で絡みにいった。
細い金属の指が葉をつかむ。引く。鉢がわずかに傾く。対象の体も傾く。二つが同時に、ゆっくり、どうにもならない方向へ倒れていく。
鉢は横になり、土は少しこぼれた。
SCP-1370 は鉢と壁の間に挟まった。

「戦略的接近に成功」
私は端末の画面を見つめた。
文字がにじむほどではない。ただ、笑わないようにするには、画面だけを見ている必要があった。
上司さんは、私を見なかった。
それが少しだけありがたかった。
「対象は物理的損傷能力を示さず。自力離脱不可。補助回収に移行」
上司さんが合図すると、天井の小型アームが下りてきた。柔らかい固定具が SCP-1370 の胴体を挟み、ゆっくり持ち上げる。
対象は空中で手足を動かした。
「離せ。これは撤退ではない。汝らに我が重力操作を見せているだけである」
「記録しますか」
私が聞くと、上司さんは少しだけ間を置いた。
「記録する。原文ではなく、挙動として」
私はうなずいた。
対象はケースへ戻された。透明な板が閉まり、ロックがかかる。SCP-1370 は内側から板を叩いた。音はやはり軽い。
「世界は我を恐れるであろう」
私はケースの前に立った。
怖い、とは違う。
でも、何も感じないわけでもない。
この小さな機械は、敵意だけなら部屋いっぱいに持っている。相手を壊す言葉も、征服する言葉も、何度でも言える。けれど体は弱く、バランスは悪く、植物にも勝てない。
だから安全なのだろうか。
それとも、安全に見えるから、余計に丁寧に閉じ込めるのだろうか。
「上司さん」
「何だ」
「あれは、自分が弱いことを知っているんでしょうか」
上司さんは、ケースのロック表示を確認してから答えた。
「不明だ」
「知らないなら、少しかわいそうです」
「知っていても、同じだ」
私は対象を見た。
SCP-1370 は胸のスピーカーから、また別の名乗りを始めていた。今度は支配者で、破壊者で、ありとあらゆる壁を砕く者だと言っている。
透明な壁の内側で。
「Safe は、やさしい分類じゃないんですね」
私が言うと、上司さんはペンを止めた。
「収容できる、という分類だ」
「はい」
「理解したなら、記録を閉じろ」
私は端末に最後の一行を打った。
対象、ケース内へ再収容。外部損傷なし。職員負傷なし。
それだけ書くと、とても簡単な試験に見えた。
でも扉を出る直前、ケースの中からまだ声が聞こえた。
「我は待つ。すべての者が膝をつく日まで」
私は振り返らなかった。
笑わないためではない。
その声を、ただの冗談として終わらせないためだった。
SCP Foundation — Observation Log
- FILE No.
- OBS-1370/GALLERY-27
- DATE
- ████-██-██
- AUTHOR
- █████████
- SUBJECT
- D-1103
- DURATION
- 00:07:30
- STATUS
- COMPLETED - SUBJECT ALIVE
【分類】SAFE
オブジェクトクラス: Safe
SCP-1370 は、敵対的言動を継続する自律人工実体である。通常条件下では収容ケースによる管理が可能であり、現時点で人員または設備へ有効な物理損傷を与える能力は確認されていない。
【収容手順】
- SCP-1370 は Gallery 27 内の耐火ガラス製展示ケースに収容する。
- ケース破損時は、対象が立位および短距離移動を行える大きさの臨時容器へ移す。
- レベル2以上の職員は、観察・試験目的で対象をケース外へ出してよい。ただし試験終了後は速やかに再収容する。
- 対象は視覚・音声刺激へ反応するため、観察者は不要な挑発、嘲笑、長時間の会話を避ける。
- 対象が転倒または物体に挟まれた場合、遠隔アームまたは保護具を用いて回収する。
【説明】
SCP-1370 は、電気機器、工具、金属部品を組み合わせた外観を持つ、高さ約一メートルの自律人工実体である。外部電源、内蔵動力、通常の駆動機構は確認されていないが、対象は歩行、発声、周辺刺激への反応を行う。
頭部に見える計器は感覚器として機能している証拠がない。ただし対象は、視覚的または音声的な刺激の位置をおおむね判別して行動する。胸部スピーカーから単調な声で発話し、複数言語を使用または学習する能力がある。
対象は、自身が知性を持つと判断した存在または物体に対し、敵対的な名乗り、威嚇、戦闘宣言を行う。一方で、身体能力は低く、重心の不安定さにより転倒しやすい。現在までの観察では、対象が生物へ有効な損傷を与えた事例は確認されていない。
【備考】
本記録では、D-1103 立会いのもと、ケース外行動および擬似会話対象への反応を観察した。対象は観察者を敵性存在として言語的に指定し、接近を試みたが、短距離歩行中にバランスを崩した。
続く観察では、鉢植え内のスピーカーから発せられた合成音声を知性対象と判断し、対象は鉢植えへ接近した。対象は葉部との接触後、自身の関節と鉢の位置関係により拘束状態となり、自力復帰できなかった。
対象の敵意は一貫しているが、現状の物理能力は低い。ただし「危険ではない」と「管理を怠ってよい」は同義ではない。対象の知覚・学習能力、言語獲得範囲、敵性対象の判定条件について、定期観察を継続する。