第7話 / SCP-131
まばたきしない見張り番
通路の床を、何かが小さく叩いていた。
足音ではない。車輪の音でもない。もっと軽い、乾いた音だった。硬い床の上を、丸いものが止まりきれずに転がっているような音。
「止まるな」
上司さんが言った。
私は返事をしようとして、やめた。返事より先に、視線が音のほうへ引っぱられていたからだ。
角の向こうから、二つの影が飛び出してきた。

最初に見えたのは、目だった。
ひとつずつ。大きな青い目が、丸い体の真ん中に埋まっている。体はしずくのような形で、片方は焼けた橙色、もう片方はくすんだ黄色をしていた。私の膝よりずっと低い。けれど動きは速く、床の上を滑るように近づいてくる。
私は反射的に半歩下がった。
二体は止まろうとして、止まりきれなかった。先に来た橙色のほうが私のブーツの横を通り過ぎ、黄色のほうがその背中にぶつかる。小さな高い声が、二つ重なった。
怒っているようにも、笑っているようにも聞こえた。
「SCP-131-A および B」
上司さんは、驚かなかった。
「Safe。危険行動は確認されていない」
私はゆっくり息を吐いた。Safe という言葉は、ここでは「安心」と同じ意味ではない。それはもう覚えた。けれど目の前の二体は、少なくとも私を壊すつもりには見えなかった。
橙色のほうが、私の足元を一周した。
黄色のほうは、上司さんの靴先で止まった。止まったつもりなのだと思う。実際には少しだけ行き過ぎて、慌てて戻ってきた。
「……見ていますね」
私が言うと、上司さんは短く答えた。
「ああ」
「まばたき、しないんですか」
「記録上、確認されていない」
私は二体の目を見た。
大きい。濡れている。こちらを見ているのに、敵意がない。けれど、まばたきをしない目というのは、かわいいだけでは終わらない。やさしい顔をした監視カメラみたいだった。
橙色のほうが、私の足に体を寄せた。
軽く触れただけだった。けれど、そのまま離れない。黄色のほうも来た。二体は私の左右を挟むように並び、高い声で何かを話し始めた。
意味はわからない。
ただ、私を責めているわけではないことだけは、なぜかわかった。
「上司さん」
「撫でるな」
言われる前に、私は少し手を伸ばしていた。
指が止まる。
「懐く」
その一言で、手を戻した。
橙色の体が、残念そうに少し沈んだ。黄色のほうが、私のブーツに横から体当たりする。強くはない。抗議のつもりらしい。
「懐くと、だめなんですか」
「対象は結びついた相手について回る。制限区域にも入ろうとする」
「それは、危ないですね」
「人間にも、対象にも」
私は二体を見下ろした。
小さくて、速くて、止まるのが下手で、目が一つずつある。施設の中にいるのに、施設の怖さを知らないように見える。
でも、上司さんはその見方を訂正しなかった。
ただ、前へ歩けと目で示した。
私たちは通路を進んだ。二体はついてきた。最初は私の足元にまとわりついていたが、やがて少し前に出て、曲がり角のたびに先に覗き込むようになった。
「見張りみたいです」
「実際、危険に反応する」
「危険、ですか」
「Euclid または Keter 級対象の近くで、警告に似た行動を示す」
黄色のほうが、そこで急に止まった。
今度は本当に止まった。
橙色のほうも、少し遅れて止まる。二体の体が同じ方向を向いた。通路の奥。扉が一枚ある。扉の上には、赤い表示灯が点いていた。

そこから先へ進む予定は、なかったはずだ。
私がそう思った瞬間、二体が同時に高い声を上げた。
さっきまでの声と違った。
遊んでいる音ではない。急いでいる音だった。小さな体が私の足元へ戻ってきて、行くなと言うみたいに、何度も前へ出る。
「下がれ」
上司さんの声が、低くなった。
私は一歩下がった。
「もっと」
二歩。
扉の向こうで、金属がこすれる音がした。
私の背中に汗が出た。空調は冷たいのに、首の後ろだけが熱い。
「何が」
「清掃区画だ」
上司さんは扉から目を離さない。
「隣接区画に SCP-173 の収容室がある」
私は息を止めた。
名前を聞くだけで、目が乾く番号がある。SCP-173。見ていなければ動く。見ているあいだだけ止まる。そう教えられた。教えられたというより、体で覚えさせられた。
橙色と黄色の二体は、扉を見ていた。
まばたきをしない目で。
私はその意味に、少し遅れて追いついた。
「あの子たち」
「見ている」
上司さんが言った。
説明はそれだけだった。
でも、それだけで十分だった。
見ている。逃げるためではなく、止めるために。小さな二体の青い目が、扉の向こうにある危険を、まだ見えない距離から押さえている。
表示灯が赤から黄へ変わった。内線が鳴る。上司さんが壁の端末を取った。
「こちら通路 C-7。対象 131-A/B が警告行動中。清掃班の位置を確認しろ」
短い沈黙。
受話口の向こうで、誰かの声が速くなった。
上司さんの表情は変わらない。けれど、指だけが少し強く端末を握っていた。
「全員、視線を維持。退避は合図後。繰り返す、視線を維持」
私は二体を見ていた。
橙色の体が震えている。黄色のほうも同じだった。怖がっているのかもしれない。怖がっていても、目をそらさない。まばたきをしない、という性質が、こんな形で役に立つのだと知った。
「上司さん、私は」
「動くな」
「はい」
「対象を見る必要はない。二体の退路だけ確保しろ」
私はうなずいた。
床に膝をつきたい気持ちをこらえ、通路の端へ寄った。二体が戻ってこられる幅を空ける。たったそれだけの作業なのに、手が冷たくなった。
扉の向こうで、また金属音がした。
誰かが短く叫んだ。
二体の声が、さらに高くなる。
私は目を閉じたくなった。閉じてはいけない場所で、閉じたいと思う体は、いつも私の邪魔をする。
だから、床を見た。
二体の影を見る。丸く揺れる影。逃げない影。
やがて、端末から別の声が入った。
「清掃班、退避完了。収容扉、再固定」
上司さんは一秒だけ待った。
「確認」
「確認完了。異常なし」
その瞬間、二体の緊張がほどけた。
橙色のほうが、その場で小さく跳ねた。黄色のほうは勢い余って横に滑り、壁に軽くぶつかった。さっきと同じ高い声。でも今度は、少し誇らしそうに聞こえた。
私は笑いそうになって、やめた。
ここでは、笑っていいタイミングと、そうではないタイミングの境目が難しい。
上司さんが端末を戻す。
「記録する」
「はい」
「対象 131-A/B は、危険接近時に対象者を制止。視線維持対象への反応と推定。清掃班の退避まで警告行動を継続」
私は復唱しながら、端末に入力した。
文字にすると、さっきの怖さはずいぶん小さくなる。
でも小さくなったからこそ、記録として残る。
橙色のほうが、また私の足元へ来た。
今度は触れない。ぎりぎりの距離で止まって、大きな目で見上げてくる。

撫でるな。
懐く。
危ない。
全部わかっている。
だから私は、手を出さずに言った。
「……ありがとう」
二体は、言葉がわかったのかどうか、同時に小さく跳ねた。
上司さんは何も言わなかった。
ただ、歩き出す前に少しだけ待った。二体が通路の先へ転がっていくのを、最後まで見届けるための沈黙だった。
私はその横顔を見て、また床へ視線を戻した。
青い目が二つ、曲がり角の向こうでこちらを振り返った。
まばたきは、やはりしなかった。
SCP Foundation — Observation Log
- FILE No.
- OBS-131/SITE-19
- DATE
- ████-██-██
- AUTHOR
- █████████
- SUBJECT
- D-1103
- DURATION
- 00:09:00
- STATUS
- COMPLETED — SUBJECT ALIVE
【分類】SAFE
オブジェクトクラス: Safe
SCP-131-A および SCP-131-B は、通常条件下で敵対行動を示さず、施設内での自由移動が許可されている小型実体である。ただし、特定職員・対象者への付着的行動、および危険対象への接近警告が確認されているため、位置情報の定期確認を継続する。
【収容手順】
- SCP-131-A/B に対し、特殊な隔離措置は不要とする。
- 両対象は Site-19 内の通常区画を移動してよい。ただし、制限区域への進入および施設外への移動は認めない。
- 対象の所在は定期的に確認する。所在不明時は、低段階の警戒手順を開始する。
- 職員による過度な接触は避けること。両対象は接触者へ懐き、業務区画や制限区域まで追従する傾向がある。
- 両対象への虐待・故意の損傷・危険対象への誘導は禁止する。
【説明】
SCP-131-A/B は、体高約 30cm のしずく状小型実体である。各個体は中央に単眼を有し、下部の車輪状構造によって高速移動する。A は橙色、B は黄色系の体色を示す。
両対象は好奇心が強く、職員や他の Safe クラス対象を観察する行動が多い。発声は高音の連続音で、人間側による翻訳は未確立である。長時間の観察記録において、通常のまばたきは確認されていない。
重要な性質として、両対象は周辺の危険を感知し、結びついた対象者が危険区域へ接近した際に進路妨害・発声・足元への集合などの警告行動を示す。警告対象は Euclid または Keter 級対象に限られないが、現時点で反応例は高危険度対象周辺に集中している。
【備考】
本記録は、通路 C-7 における SCP-131-A/B の警告行動観察である。D-1103 は対象へ接触しようとしたが、監督者の制止により接触は発生しなかった。
隣接清掃区画で SCP-173 関連作業が進行していた際、両対象は通路上で停止し、対象区画方向への注視と高音発声を開始した。監督者は清掃班へ視線維持および退避指示を伝達。清掃班退避後、両対象の警告行動は終了した。
両対象の「まばたきしない」性質は、視線維持が収容上重要となる対象に対して補助的価値を持つ可能性がある。ただし、両対象を危険対象の監視要員として正式運用する場合、対象自体への損傷リスクが発生する。現時点では恒常運用ではなく、偶発的補助行動として記録に留める。