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6話 / SCP-104

離れられない球

保管室の床は、靴音をほとんど返さなかった。

吸音材のせいだと、あとから聞いた。けれど最初に入ったとき、私はただ、ここでは音まで管理されているのだと思った。扉が閉まる音も、警備員の息も、私の手袋がこすれる音も、ぜんぶ薄い布の下へ押し込まれているみたいだった。

「手袋を外すな」

上司さんは、それだけを先に言った。

私の両手には、肘の少し下まである分厚い手袋がはめられていた。指先を曲げるだけで力が要る。物をつかむためというより、触れないための道具だった。

「対象は球体。分類は Euclid」 「球、ですか」 「そうだ」

上司さんの返事は短かった。 短いほど、危ないものだとわかるようになってきた。

保管室の中央には、電子ロックのついた鋼鉄製の箱が置かれていた。箱というより、小さな金庫に近い。横には遠隔操作用のマニピュレータが固定され、その先端には透明な樹脂の爪がついている。

「D-1103」 「はい」 「今日は、持ち上げるだけだ。素手では触れるな。布越しでも、厚みを確認してから動け」 「触ったら、どうなりますか」

上司さんはすぐには答えなかった。 代わりに、マニピュレータの電源を入れた。低い作動音が、床の下から上がってくる。

「覚えられる」 「誰に」 「対象に」

それ以上の説明はなかった。

ロックが解除されると、金庫の蓋が数センチだけ持ち上がった。内側から光が漏れたわけではない。匂いもない。ただ、部屋の空気がひとつ固くなった。

マニピュレータの爪が、ゆっくり中へ入る。 そして、それを持ち上げた。

ロボットアームが、開いた保管箱の前で模様のある球体を持ち上げている

SCP-104 は、思っていたより小さかった。

直径は、人の両手で包めるくらい。表面は滑らかなガラスで、その下に白と黒の細い線が幾重にも走っていた。木の芯がある、と資料には書かれていたけれど、ここからは木目よりも線のほうが目立つ。

線は模様に見えた。 模様に見えた瞬間、別のものにも見えた。

目を細めると、古い地図の海岸線みたいだった。少し角度を変えると、閉じたまぶたのしわにも見えた。次の瞬間には、爪の跡のようにも見える。

見ている私のほうが、勝手に意味を探している。 そう気づいたのに、やめられなかった。

「見すぎるな」 上司さんが言った。 「接触試験ではない」

私は息を吸い直した。 マニピュレータの爪が球を試験台へ置く。こん、と乾いた音がした。球は転がらなかった。そこに置かれるために作られていたみたいに、静かに止まった。

「五分計測」

研究員がタイマーを押した。

今回の試験は、非接触移送の確認だった。球体を試験台へ置き、隣の観察室へ移す。距離は十メートル。過去記録では、刻印された対象から九メートル以上離れた状態が五分続くと、SCP-104 は対象の近くへ戻る。

ただし、今回は誰にも刻印されていない。 そのはずだった。

「上司さん」 私は小さく言った。 「動いてません」 「動いていない」 「でも、近づいている気がします」

球は動いていなかった。 台の中央に、最初と同じ角度で置かれている。影も変わっていない。距離も変わっていない。

それなのに、私のほうが一歩近づいたみたいに感じる。

「対象の異常性とは別だ」 上司さんは視線を球から外さなかった。 「模様を見るな。輪郭だけを見ろ」

私はうなずいた。 輪郭だけを見る。 ただの丸。 ただの球。

そう思うほど、黒と白の線が目の端でほどける。

五分が過ぎても、何も起きなかった。 研究員が息を吐く。警備員の肩が、ほんの少しだけ下がる。

「未刻印状態を維持」 上司さんが言った。 「次、距離確認」

私は台車を押して、球を載せた輸送ケースを観察室へ運ぶ役になった。マニピュレータで球をケースへ移し、ケースごと密閉する。私はケースの持ち手だけに触れる。

それだけ。

それだけなのに、手袋の中で指先に汗がにじんだ。

観察室までの廊下は、まっすぐだった。 十メートル。十二メートル。十五メートル。 床に貼られた距離表示が、足元を過ぎていく。

「停止」

上司さんの声がインカムから入る。 私は台車を止めた。

透明な輸送ケースに収められた球体が、施設の廊下を台車で運ばれている

ケースの中で、SCP-104 は変わらずそこにある。揺れない。光らない。呼吸もしない。

なのに、私は振り返った。

保管室の扉が、廊下の向こうに見える。 あの箱の中にあったときよりも、いまのほうが、球は遠くにいるはずだった。 でも、胸の奥では反対だった。

近い。

「D-1103、視線を戻せ」 「はい」 「ケースのロックを確認」

私はロックを確認した。緑のランプが点いている。異常なし。

そのとき、ケースの内側で、ごく小さな音がした。

かち。

時計の針が、一つだけ進んだような音。

私は息を止めた。 「上司さん、いま」 「聞こえた」

上司さんの声は平らだった。 平らだから、余計に怖かった。

「動くな」

私は動かなかった。 目だけでケースを見る。SCP-104 は同じ位置にある。模様も、影も、変わっていない。

二度目の音はなかった。

「記録: 内部作動音らしき単発音。移動なし。視認変化なし」 上司さんは淡々と告げた。 「D-1103、手を離せ」

私は持ち手から手を離した。 手袋の厚さが急にありがたくなった。分厚くて、動かしにくくて、邪魔だったものが、私と球のあいだにある唯一の距離だった。

五分、待った。

球はどこにも行かなかった。

厚いガラス越しに、透明ケース内の球体を手袋越しに観察している

観察室のロックが閉まり、試験終了の合図が出たとき、私はようやく息を吐いた。

「上司さん」 「何だ」 「これ、寂しいんですか」

言ってから、変な質問だと思った。 球に感情があるかなんて、わからない。資料にもそんなことは書かれていない。ただ、人に触れる。触れた相手から離れすぎると戻ってくる。少しずつ近づく。それだけ。

それだけを、私は勝手に寂しさに変えた。

上司さんはケースの中の球を見たまま答えた。

「寂しいかどうかは、確認できない」 「はい」 「だが、対象は距離を許容しない」

距離を許容しない。

その言葉は、寂しい、よりずっと冷たかった。

廊下を戻るとき、私はもう一度だけ観察室の窓を見た。 SCP-104 は透明なケースの中央に置かれている。そこから動かない。

動かないのに、こちらを覚えている気がした。

私は手袋を外さなかった。 保管室を出て、二つ目の扉が閉まり、廊下の音が戻ってきても、外さなかった。

手袋の内側に残った汗が冷えていく。 何にも触れなかったはずの指先が、ずっと何かに触れられているようだった。

REPORT

SCP Foundation — Observation Log

FILE No.
OBS-████/SCP-104
DATE
████-██-██
AUTHOR
█████████
SUBJECT
D-1103
DURATION
05:12:00
STATUS
COMPLETED — SUBJECT ALIVE

分類EUCLID

オブジェクトクラス: Euclid

本分類は、対象が能動的な追跡・再出現性を持ち、誤接触時の対応が人的処置を伴うためである。対象自体の破壊的能力は限定的だが、刻印後の距離制限と接触管理が収容上の主要リスクとなる。

収容手順

SCP-104 は電子ロック付き鋼鉄製保管箱内に収容する。アクセス権限はクラス3以上に制限する。対象を生体組織へ直接接触させてはならない。

移送、検査、配置変更はロボットアーム、遠隔マニピュレータ、または十分な厚みを持つ保護手袋を用いて実施する。接触保護具の厚み、破損、湿潤状態は作業前後に確認すること。

対象への刻印が発生した場合、対象者は直ちに隔離され、距離管理下で解除手順の検討を受ける。未承認の接触実験は禁止する。

説明

SCP-104 は、外周約35.5 cm、重量約2.3 kgの球体である。外表面は滑らかなガラス層で覆われ、内部に木製の芯と複雑な白黒模様が確認される。模様の見え方は観察者ごとに異なり、心理検査図版に類する印象を与える。

未刻印状態の SCP-104 に人間が直接触れると、対象は当該人物へ「刻印」される。刻印対象者が SCP-104 から一定距離以上離れた状態を維持した場合、SCP-104 は対象者の近傍へ再出現する。再出現は瞬間的で、遮蔽物や距離による通常の移動制限を受けない。

刻印後、SCP-104 は時間経過とともに対象者へ接近する傾向を示す。接近は物理的な攻撃ではなく、距離を縮める行動として観測される。対象は破壊後も再出現時には完全な状態で確認されており、恒久的破壊は成立していない。

備考

本記録では、D-1103 を非接触移送補助員として配置し、SCP-104 の未刻印状態維持を確認した。作業中、対象との直接接触は発生していない。

移送中、D-1103 は対象内部からの単発音を報告した。監督職員も同音を確認したが、外形変化、位置変化、刻印反応は観測されなかった。過去記録にも内部の作動音らしき報告があるため、継続観察項目とする。

D-1103 は試験後、対象の接近性を感情語で解釈する傾向を示した。教育上は許容範囲。ただし SCP-104 に意思または感情が存在するとの判断材料はない。以後の説明では「寂しさ」ではなく「距離不許容性」と表現する。

署名: █████████

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