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4話 / SCP-106

触れたら、もう戻れない

「今日は、近づかない任務だ」 上司さんは廊下の途中で立ち止まって、私を一度、まっすぐ見た。 そういう前置きをするときの上司さんは、たいてい、近づかなくても危険な相手の話をしている。 「監視映像を見るだけだ。観察室から出てはならない。私の指示があるまで、扉を開けてもならない」 「はい」 「対象に呼ばれても、応えるな。声が出ても、返事をするな」 「呼ばれる……んですか」 「呼ぶことがある。今日は、わからない」

上司さんはそれだけ言って、また歩き出した。 廊下は奥に行くほど照明が強くなった。普通の収容セルの倍くらい明るい。蛍光灯ではない、別系統の白い光が、壁の上の方からも下の方からも当たっていて、影がうまくできない。私の足下に、私の影が、半分しかなかった。

「対象は強い光を嫌う」 私の視線に気づいたらしい上司さんが、説明した。 「セル周囲は常時 8 万ルーメン以上を維持している。万が一、対象が解放されたとき、進行を遅らせるためだ」 「8 万」 「太陽光下で、しっかり眩しいくらいの量だ」 上司さんの白衣の襟元が、いつもより少し汚れていた。前の任務で何かに触れたあとなのかもしれない。私は黙ってうなずいた。

強い白色光に照らされた収容区画の廊下を歩くEveの後ろ姿、隣に上司

観察室は、収容セル本体から廊下を一本挟んだ位置にあった。鉛で覆われた厚い扉を二回通って、ようやく中に入る。 中は薄暗かった。明るい廊下のあとだったから、最初は何もよく見えなかった。 慣れてくると、壁一面のモニタが、ぼんやり浮かび上がってきた。

中央のモニタに、それは映っていた。

球体のセルの中央、電磁サスペンションで宙に浮いた、四十層の鉛容器。その奥のさらに奥、最内殻のカメラが拾った映像に、うっすらと、人型の輪郭があった。 ――痩せた、老齢の、男性のように見えた。 皮膚は、あった。あったけれど、その表面が、ところどころ「無い」ように見えた。崩れているとも、剥がれているとも違う。粘度の高い液体が、皮膚の代わりに、ゆっくり下に垂れているように見えた。 「対象、SCP-106」 上司さんは、淡々と読み上げた。 「俗称、老人。対象クラス、Keter」 「Keter……」 「収容失敗時の被害が、最も大きい類だ」

薄暗い観察室のモニタ群、中央に映る痩せた老人型対象のシルエット

私は、モニタから視線を外せなかった。 老人は動かなかった。動かなかったけれど、こちらを見ている、ような気がした。映像の解像度はざらついていて、目があるのかさえ、はっきりしない。なのに、見られている、と感じた。 「観察室の壁を、触っておけ」 上司さんが、そう言った。 「壁、ですか」 「触っておけ。冷たいか、生ぬるいか、覚えておけ」 私は意味がわからないまま、右手で壁に触れた。 ――ふつうの、コンクリートの、冷たさだった。

任務開始から、12 分が経過した頃。 モニタの中で、老人が、ゆっくりと、片手を、上げた。 「動きました」 私は反射的に言った。 「見ている」 上司さんは、目を、モニタから書類に戻した。書類のページを一枚、めくる音がした。 そのときだ。 ――こつ、と、音がした。 観察室の、壁の、向こう側から。

私は、自分が触ったままだった右手を、見た。 壁に当てた手のひらの、ちょうどその外側で、何か、薄い、湿った膜のようなものが、にじみ出てきていた。 黒い。 タールのような、しかし血のような、粘度の高い、滲み。 それが、壁を、内側から、押し出していた。

「上司さん」 「離れろ」 上司さんの声は、いつもの淡々とした声だったが、書類はもう持っていなかった。 「D-1103、右手を、いますぐ、壁から離せ」 私は、手を、引こうとした。 ――引けなかった。 触れているわけではない。冷たいコンクリートが、ただ、そこにあるだけだ。なのに、引けない。 引けない、というより、自分の手が、自分の手として動かない。

「リコール起動」 上司さんが、別のスイッチを押した気がした。 同時に、観察室の中の照明が、白くなった。 さっきまでも明るかったのに、その上から、別系統の、もっと白い光が、私の右手のあたりに、集中的に当たった。

観察室の壁から滲み出す黒いタール状の手、右手で壁に触れた被験者の指先

――じゅ、と、何かが、焦げる音がした。 私の手の、指先のあたりで、何かが、引いた。 引いた、という以外の言葉が、思いつかない。タールのような滲みは、壁の中に、ゆっくり、戻っていった。

「動くな」 上司さんは、私の腕をつかんで、壁から引き剥がした。 引き剥がされた、と感じてようやく、自分が壁に張り付けられていたことに気づいた。 右手の指先は、爪が、二枚、無くなっていた。 痛みは、まだ、なかった。痛みより先に、空洞があった。 指先が、自分のものではないような、ひんやりした、空洞だった。

「医務室」 上司さんは、それだけ言った。 私は、引っ張られるように、観察室を出た。出るとき、もう一度、モニタを見た。 老人は、また、最内殻の中央に戻っていた。動かなかった。動かなかったように見えた。 けれど、片手だけ、ほんの少し、こっちに伸びたまま、止まっていた。

廊下は、相変わらず、影のできない明るさだった。 上司さんの足音と、私の足音が、ふたつ、聞こえていた。私の方が、ほんの少し、遅れていた。 「指先は、再生する見込みがある」 上司さんは、歩きながら言った。 「来週、もう一度試験がある。それまでに、爪は戻る」 「はい」 「次は、別の対象だ」 「はい」

――触れていないのに、引きずり込まれかけた、という感覚だけが、右手の空洞のところに、残っていた。 たぶん、来週には、忘れている。

REPORT

SCP Foundation — Observation Log

FILE No.
OBS-████/SCP-106
DATE
████-██-██
AUTHOR
█████████
SUBJECT
D-1103
DURATION
00:18:00
STATUS
COMPLETED — SUBJECT ALIVE

分類KETER

オブジェクトクラス: Keter

※ Keter は「収容が極めて困難であり、収容失敗時の被害が大きい」クラスである。本対象は当該分類の代表例の一つに該当する。

収容手順

  • 本対象は、内側に向けて鉛で被覆した球状セル内に収容する。鉛被覆は 40 層、各層間に36cm 以上の空隙を確保すること。
  • セル中央において、対象を電磁サスペンション装置により浮遊保持する。物理接触面を最小化することが目的である。
  • セル周囲には常時 80,000 ルーメン以上の照明を維持すること。対象は強光を回避する傾向が観測されている。
  • 職員は対象から 60 メートル以上の距離を保つこと。直接視認は監視カメラ経由でのみ実施し、観察室内では対象方向の壁に体の一部を接触させない。
  • 対象が収容違反を発生させた場合、直ちにリコールプロトコルを起動する。詳細は別添資料を参照。
  • 対象は固体物質を透過する性質を持つため、収容セルの「閉鎖」は対象の保持手段ではなく、対象の活動範囲を制限する遅延手段であることを理解しておくこと。

説明

SCP-106 は、進行した腐敗状態にある老齢の人型対象である。表面には黒色の粘性物質が常時付着・滴下しており、当該物質は接触した有機物・無機物を急速に劣化(以下「腐食効果」と呼称)させる。

本対象の主要な異常性は以下である。

  • 固体物質透過: 対象は壁・床・天井等の固体構造物を、通常の歩行と同様の速度で通過可能である。透過時、進入面・離脱面の周囲に粘性物質の滲出が観測される。
  • ポケット次元の保持: 対象は固有の隔絶空間を有しており、捕獲した対象人物を当該空間内に移送する。空間内部は通路と部屋から構成され、時間・空間・知覚に関する物理法則が、SCP-106 の制御下にあると判定されている。これまでに収容空間から自力で脱出した人物は、確認されていない。
  • 捕食傾向: 対象は 概ね 10〜25 歳の人間に対する捕食行動を示す。長期の休眠期と短期の攻撃期を反復するが、サイクルの予測には至っていない。
  • 強光への忌避: 対象は 80,000 ルーメンを超える環境下において、活動が顕著に低下する。リコールプロトコルもこの忌避特性を利用する。

本対象が「老人」であるか、老齢の姿を模倣しているだけであるかは、現時点でも判断材料がない。

備考

  • 本任務は、SCP-106 収容セルに対する遠隔監視補助業務である。D-1103 は観察室に配置され、対象との直接接触は予定されていなかった。
  • 任務開始から 12 分後、対象が休眠状態から短期の攻撃段階へ移行。同時に、観察室の対象側壁面において、対象の粘性物質の部分滲出が観測された。
  • D-1103 の右手は、当該滲出位置と接触状態にあった。リコールプロトコルの即時起動により、ポケット次元への完全な引き込みは回避された。
  • D-1103 に以下の損傷を確認した。
    • 右手指先の爪 2 枚の腐食消失(第 4 指・第 5 指)
    • 同部位皮膚の表層腐食(深度 0.5〜1mm)
    • 痛覚反応は遅延(リコール直後 90 秒間、痛覚消失を申告)
  • 対象が観察室方向の壁に滲出を発生させた事例は、本試験を含めて通算 11 回目である。過去の観測記録との一致については追補資料を参照。
  • D-1103 は、本試験について、終了後 30 分時点で「右手の感触」のみ言及し、観察室での経緯については「あまり覚えていない」と申告した。観測者所見: 記録は継続する。
署名: █████████

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