第11話 / SCP-999
笑い声の収容室
収容室の前で、私は手袋を外すように言われた。
「素手でいいんですか」
上司さんはガラス越しに中を見たまま、短く頷いた。
床の中央に、淡いオレンジ色の塊があった。ゼリーより重く、泥より明るい。照明を吸った表面がゆっくり揺れていて、そのたびに、消毒液の匂いの奥から甘い匂いが上がってくる。チョコレートみたいでもあり、洗いたての布みたいでもあった。
怖いと思う前に、それは私の足元まで滑ってきた。
逃げるな、と言われたわけではない。近づけ、とも言われていない。ただ、記録しろ、とだけ命じられていた。だから私は壁際のラインを踏まないように立ったまま、右手を少し下げた。

指先に触れた瞬間、肩の力が抜けた。
それは命令ではなかった。麻酔でもない。胸の奥で固まっていたものが、誰にも見られない場所でほどかれていく。冷たい部屋の音が遠くなり、自分の呼吸が少しだけ戻ってくる。私は笑っていた。笑う理由を見つけるより先に、口元だけが勝手にゆるんでいた。
SCP-999は私の手首にまとわりつき、腕を登ろうとして、途中でぺたりと床に落ちた。失敗したことを気にしていないみたいに、すぐまた跳ねた。危険なものを見ているはずなのに、危険がこちらを喜ばせようとしている。
それが、いちばん奇妙だった。

私は怖がる準備をしてきた。扉、警告灯、退避経路、上司さんの声。いつもの手順を身体の中に並べていた。けれどSCP-999に触れているあいだ、その手順が柔らかくなっていく。警戒を忘れたいわけではない。忘れたらいけないこともわかっている。それでも、笑い声が喉の奥から出てしまう。
「Eve。記録を続けろ」
上司さんの声で、私はようやくペンを握り直した。
対象は敵意を示さない。人に寄ってくる。遊びたがる。触れた者の気分を明るくする。負傷者や落ち込んだ者への接近傾向がある。
そこまで書いて、私は一度止まった。
この部屋でいちばん危ないものは、SCP-999ではないのかもしれない。危険がないと決めつけること。安心したまま、収容という言葉の意味を薄めてしまうこと。
足元のオレンジ色の塊が、私の靴先にそっと触れた。

私はまた、笑ってしまった。
SCP Foundation — Observation Log
- FILE No.
- OBS-████/SCP-999
- DATE
- ████-██-██
- AUTHOR
- █████████
- SUBJECT
- D-1103
- DURATION
- 00:09:00
- STATUS
- COMPLETED — SUBJECT STABLE
【分類】SAFE
オブジェクトクラス: Safe
※ Safe は「適切な保管手順により収容・管理が可能であり、通常は自発的な収容違反を起こさない」分類である。本対象は敵対行動を示さないが、接触者の心理状態に明確な変化を起こすため、管理対象であることに変わりはない。
【収容手順】
- SCP-999 は施設内の指定区画で管理する。
- 休息時間、封鎖時、夜間、施設外への移動については制限を設ける。
- 収容区画は清潔に保ち、食餌は定期的に交換する。
- 対象への接触は、担当任務中でない人員に限って許可される。
- 接触時は威圧的な言動を避け、過度な興奮を誘発する飲食物を与えない。
- 接触後の人員は、記録継続と退出確認を行うこと。
【説明】
SCP-999 は、半透明のオレンジ色をした不定形生物である。身体形状は固定されておらず、床面を滑る、跳ねる、疑似的な腕のような部位を伸ばすなどの行動が確認されている。
対象は人員に接近し、身体接触を通じて心理状態を変化させる。反応は概ね肯定的で、恐怖、緊張、抑うつ傾向の軽減として観察される。
対象の行動は友好的に見えるが、収容上は「無害」ではなく「管理可能な反応を示す異常」として扱う。安心感そのものが判断を鈍らせる可能性があるため、接触時の職務判断を対象の効果と切り分けて記録すること。
【備考】
Eveの観察記録では、接触直後に恐怖反応の低下と笑いの誘発が確認された。対象は人員の不調に反応する傾向を示すため、医療・心理面への応用可能性はある。
ただし、効果の機序、持続時間、依存性の有無は未確定である。収容手順の緩和は推奨しない。